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【哲学のどんでん返し】ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫) #44

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この記事から学べること

自宅の「岩波空間」

いまの自宅には、高さ180cm、幅90cmの本棚が2架ある。その内の1つの最上段が「岩波空間」になっていて、学生のころ背伸びして買った『笑い』(ベルクソン)や『形而上学』(アリストテレス)、社会人になってオトナ買いした『水滸伝』10巻などがずらりと並ぶ。今回紹介する『論理哲学論考』もそのラインナップの1つだ。最後の《語りえぬものについては、沈黙せねばならない》という1文が有名だ。

語りえぬものって?

ウィトゲンシュタインは、神の存在やその死などといった事実として認識しえないことについて、分析することには興味がなかったのです。(出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社)

ウィトゲンシュタインの文体はかなり体系的だ。《一 世界は成立していることがらの総体である》からはじまって、論理的に記述を進めていく。スピノザの『エチカ』を思わせるような書き方だ。

彼が展開したのは一種の「言語論」だ。その思想の発展は「前期」「後期」の2つに分けられる。前期の思想がこの『論考』に詰まっている(というより、彼の生前に刊行された著書はこれしかない)。

ウィトゲンシュタインはこの『論考』において、言語の基本的な構成単位を「要素命題」と呼んだ。そして要素命題は、現実におけるある事実を写す「像」であると考えた。どういうことかというと、「現実のある瞬間を写真のように写しとって言葉で表現したもの」が、言語の基本単位であるという風に決めたのだ。また、それら要素命題から論理的に構成されたものとして分析できる命題だけが意味のあるものとして認められるとした。これは「科学的・合理的な言葉を使った、筋道だった表現だけが(言語論的に)有意義なものだ」と言っている。そして、それまで哲学のメインテーマであった「自我・価値・倫理」といったものについての問題は、「科学的・合理的な言葉」で明解に表現されたものでないため「語りえないもの」と言い切った。唯物論的な発想だ。要するに《語りえぬものについては、沈黙せねばならない》というメッセージは、「科学的・合理的な言葉を使った表現でなければ、語ることに意味はない」という意味をこめて発せられたものなのだ。

哲学のフィールド、考え直しません?

この『論考』とともに紹介しておきたいのが、フレーゲラッセルという2人の哲学者だ。ゴットロープ・フレーゲウィトゲンシュタインより50年ほど早く、1848年に生まれた。彼の学問的な功績のうち、ここでとりあげたいのは《厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号、言語に関する考察》だ。どういうことかというと、彼は「哲学のフィールドを考え直しませんか?」と提案したのだ。

デカルトに始まる近代哲学は、自我(自己意識)の存在の確実性から出発し、意識分析(反省)の方法によって、認識や存在の問題を解明しようと努めてきた。しかし、この内省的方法は意識の私秘性(privacy)という壁に阻まれ、外界存在の証明や他我認識(他人の心)の問題を解決することができず、独我論や不可知論の袋小路に陥らざるをえなかった。(野家[2008:79])

上に引用した通り、「われ思う、ゆえにわれ在り」のデカルトから始まる近代哲学の「自分の意識をじっくり"観察"する」という方法論には問題点があった。「他人の意識を直接見ること」ができない(《意識の私秘性》)のだ。フレーゲは「それなら哲学のフィールド自体を考え直そう」という発想をした。「私秘的な意識」を土俵にするのではなく、「公共的な言語」を哲学のメインフィールドにしようと提案したのだ。これがいわゆる「言語論的転回」だ。ウィトゲンシュタインはこのフレーゲの思想の影響を受け、第1次世界大戦でオーストリア兵として従軍するかたわら『論考』を著した。

一方ラッセルは、ウィトゲンシュタインにとっての「論理学の師匠」だ。ベルリンの工科大学で航空工学を学んだ後に数学の基礎へと関心を移していったウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にいたラッセルの下で論理学を学んだのだ。ぼくの見立てでは、この経験が『論考』の文体・思索の方法に強く反映されていると思われる。

そして「言語ゲーム」へ

さて、こうして「科学的な言語」を重視する立場にたったウィトゲンシュタインだったが、『論考』を出版した後《現実問題として日常言語の中で人は生活していること》をはたと考えた。

「元気そうでよかったね」などという日常的に交わされる言語が大切なのであって、科学的な言語を分析しても世界のことは何もわからないのではないか、そのように考え始めます。(出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社)

では、そのような「科学的でない言語」が指し示す意味は何によって決まるのだろうか。この問いに対して考えを進めていった彼は、「文脈こそが意味を確定する」という結論にいたった。どういうことか。

たとえば、誰かが「雨が降りそうだよ」と言ったとき、それは次のようなことを伝えたかったのかもしれません。 「だから傘を持って行ったほうがいいよ」 また、そうではなくて、「ずっと雨が降っていなかったから、これで畑の野菜も助かるねえ」と言いたかったのかもしれません。(前掲書より)

要するに、「話し手(と聞き手)のおかれた状況によって、発せられた言葉の意味は変わる」ということだ。当たり前だろうと思うだろうが、このことをちゃんと哲学として考えたのはウィトゲンシュタイン以前は誰もいなかったのだ。

こうした考えから、彼は「言語ゲーム」という概念を考案する。これはつまるところ「言語が文脈ごとに持っている多様な姿を考えよう」ということだ。フレーゲが提案した「言語分析としての哲学」を突き詰めたのだ。言語ゲームの提唱によって、近代哲学の「言語論的転回」は完了したとも言えるだろう。

こうしてウィトゲンシュタインの思想は、「言語(による表現)を離れた"客観的な世界"は有り得ない」という唯物論となった。ぼくには親しみがわく考え方だ。今日はこれからもう少し、言語について、文脈について考えてみたい。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

参考