ふぎと屋【溺書ブログ】

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【26歳の代表作】尾崎紅葉『三人妻』(岩波文庫) #39

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この記事から学べること

最後の江戸人

 日本が近代国家としてのスタートを切る直前の1867年、 江戸の芝中門前2丁目に生まれた男があった。名は徳太 郎。のちに文学結社「硯友社」を創立し、文学史に名を 残すことになる尾崎紅葉その人だ。工芸家の血を引き、 徳川の名残を呼吸した。

 彼の少年期について、ここでは詳しくとりあげない。 だがひとつ言うならば、紅葉と山田美妙(びみょう)との 出会いは文学史的に重要だ。というのも、この2人の出 会いが「硯友社」の設立につながっていくからだ。

 2人は小学校時代に近所に住む間柄で、その時は間も なく親交が途絶えたが、東京府(当時は「都」でないの だ)第2中学校での再会・紅葉退学による疎遠をへて、 大学予備門(言うなれば英語学校だ)での再会に至って、 硯友社が創立されるのだ。1885年のことだ。

 「硯友『社』」と言っても、当初は今でいう「大学の 文学研究会」のようなものだった。参加した者たちがお のおの書きたいことを書くものだから、そのジャンルは 小説、詩や落語、都都逸(どどいつ)といったように、趣 味的なものだった。ちなみに都都逸とは江戸時代に流行 った俗曲のひとつで、七・七・七・五音に調子をつけて 男女の恋愛などを歌ったものである。「ミリオンヒット」 も多く生まれた。『三千世界』などが有名だ。

 さて、こうして趣味の範囲で始まった硯友社だが、そ の機関紙『我楽多(がらくた)文庫』の発行を続けるうち に、口から口へ好評が広がっていき、1888年には公売を 始めるにいたった。「趣味で始めたYouTubeが本業になっ た」と考えてもらえればわかりやすいかもしれない。

 社会的に見ても、この時期は幕末明初の混乱が「西南 の役」を峠として落ち着き、文学に目を向ける余裕を持 ち始めた頃だった。紅葉はこの頃に法科(法学部)から文 科(文学部)へと移ったが、1890年にはその文科も退いて 「専業作家」への道を歩み始める。坪内逍遥の『小説神 髄』『当世書生気質』出版が背中を押した。

弱冠26歳での代表作

 さて、今回取り上げる『三人妻』は尾崎紅葉の3つの 代表作の内の1つだ(あと2つは『多情多恨』と『金色夜 叉』)。「実業家」の像を初めて描き出した小説でもある。

 主人公は明初の混乱期にあって、己の才覚のみで大豪商 となった男、余五郎(よごろう)。加州金沢の貧農の家に 生まれた彼も、有り余る金を稼ぎし今は衣食住に困るこ とはない。そうすると湧き出てくるのは、むべなるかな 女色の楽しみである。作者はこうした「男にとっての無 二の楽しみとは女色である」という価値観をまず書いて から、前半で余五郎の漁色を描いていく。彼が心を寄せ た女性3人はいずれも、最初は抵抗するのだが、彼がそ の財力をタネに仕掛ける策略にかかり、次々と妾になっ てゆく。

 彼女らがタイトルにもうたわれる通り「3人の妻」と なるのだが、本作にはもう1人、重要な女性が登場する。 本妻のお麻である。実は余五郎、貧乏時代に通いつめた 矢場(「接待」つきの射撃場)で、その本妻をたらしこん でいたのだ。本作後半はこの4人の女性を中心に、人間 関係の機微が描かれる。おのおのが生まれ育った環境に 応じ、個性や行動を描き分けていく技量はものすごい。 紅葉はこれを26歳の若さで書いたというのだから驚きだ。

読売新聞という拠点

 この力作は1892年、7カ月ほどかけて「読売新聞」に 連載された。彼が拠点とする誌面だ。その話もしておき たい。

 紅葉は1890年、出世作『二人比丘尼色懺悔』を書く。 その反響あってか、彼は同年12月から読売新聞社に入社 し、文芸欄を担当することになる。これは今の「文芸部 の記者」とは違って、社員として給料を得る代わりに作 品を書くといった「プロ作家」のようなものだった。子 安峻(たかし)らが今で言う「ゴシップ誌」として創刊し た本紙はしかし、紅葉入社のころには新聞界第一の発行 部数を誇る日刊紙になっていた。さらに当時は、坪内逍 遥らを社員として抱えていたこともあって、当時の文壇 に対する影響も大きいものだった。そんな、まさに作家 としての「ホームグラウンド」を紅葉は拠点にする僥倖 に恵まれたのだ。23歳の時である。その後、彼は『三人 妻』はもちろん、主要な作品のほぼすべてを紙上で発表 した。早熟の才能がほとばしった。

 文筆家としての紅葉はまさに「推敲の人」だった。集 英社の『日本文学全集』第2巻の解説に、紅葉の推敲は 《一句一節を練るため三、四時間を費し、はなはだしい のは数日をへて、ようやく会心の句を得るといった調子 であった》とあるように、かなり凝ったものだったよう だ。また己の文章を錬磨するため、俳句の創作にも励ん だ。句集もまとめられている。

 若くして文壇に名を轟かせた紅葉はしかし、胃を病む 身で『金色夜叉』を書きつづけ、中途にしてその生涯を 終えた。1903年、37歳での永眠である。生前、生死一如 の達観した死生観を述べながらも、執筆途中で逝くこと の無念は小さくなかったようだ。俳人の水落露石にあて た手紙に「今死に候ては七生までも世に出でておもう通 りの文章を書き申さずては已まずと執着致居候」と書い ている。

 さて、今回もずいぶん長く書いてきたのでそろそろ終 わりにしよう。ぼくとしては今後とも折に触れて、『二 人比丘尼色懺悔』から躍如する紅葉の文業が与えた影響 を紐解いていきたいと思う。

参考

講談社『日本人名大辞典』

小学館日本大百科全書

集英社『日本文学全集』